意識高い系は罪なのか

呼んで久しい「意識高い系」。私は意識高い系の存在にどこかフィクションめいた印象を持っていた。ことあるごとにセミナーに参加し、時間の有限性を説いてきて、上昇志向に満ちている人。私が持っていた意識高い系への漠然としたイメージだ。ここで一つ疑問が浮かぶ。上昇志向に満ちている人間は意識高い「系」ではなく単に意識が高いと分類してはならないのか。人間ならば人より少しでも上に行きたい、尊敬の念を集めたい、と考えるのは自然だ。生物の構造として備わっているものだろう。そのエネルギーを外部に放出し、溢れんばかりに周囲を照らすと照らされた側には影が生まれる。その影が意識高い系という言葉を形作り、嘲笑文化の発展に一役買っているのだろう。嘲笑文化はおもしろくない。確かに嘲笑する側に立っていれば自分は上にいると錯覚できる。「あいつまた馬鹿なことやってるよ」「こんなことしたって何にもならないだろ」というのは気が楽だ。ノーリスクでマウントを取り続けることができる。けれど笑う側より笑われる側の人生のほうがおもしろいだろう。これはあくまでも感想だし、それはもちろん死に際になっても、死んでもわかるわけはない。しかし、「やらない後悔よりもやる後悔」という言葉があるが意識高い系は「やる後悔」の方へ、それを嘲笑する側は「やらない後悔」のほうへ振れていくと思う。これはかなり意識高い系の側に立った考え方だ。この考えが本書を通じてどう変わるのか、私は楽しみだった。

本書では筆者が親の仇のごとく意識高い系をこきおろしていく。意識高い系をボコボコにぶん殴ってボロ雑巾のようにズタズタにする。それだけでは飽き足らずボロ雑巾に火をつけて灰を便所に流す。そんな本だ。本書の読書感想である為、私は筆者の側に立ち、筆者を肯定して話を進めていくはずだった。だがそんなヨイショヨイショ読書感想をこのブログに書いても何の意味もない気がしてきたので、本を読んで感じたことをそのまま書く。この読書感想シリーズをどういう形式で書いていくかはまだ定まっていない。内容を要約して解説するのはゲボほど多くの人間がやっているし、そもそも読めば済む話だ。とりあえず今回は本の一節を抜粋してその箇所にコメントする感じでやってみることにする。

 

筆者は意識高い系のことを決して満たされることのない非リア充であると断言し、リア充を以下のように定義している。

現時点での富裕や、恋人の有無はリア充の定義尺度ではない。東京都内で上級の親族から提供された土地に住み、その中で重層的な人間関係、つまり「地縁」を培養してきた人々は間違いなくリア充であり、そうでない「よそ者(非定住者)」を非リア充と呼ぶ。

この国では、土地に土着することによって就職、仕事、恋愛、結婚など、すべての人生の局面において途轍もないアドバンテージが得られる。地元を持たず、土地に定住しない「よそ者」はこれを受けることはできない。それはこの国で生きていくうえで大きなハンデである。よって私はリア充ではない。その土地に土着していない非定住民である私は、就職、仕事、恋愛など、人生局面のすべてにおいて「地縁」に頼ることができず、それらを独力で行わなくてはならない。そのような意味で私は逆説的に強者であるが、と同時に地縁に接続していないので常に孤独だ。だが、それゆえに自由でもある。

筆者は現実世界の充足はその全てが地縁に依存すると言い切る。地縁を培養できない非定住者がリア充になれることはないのだと。そもそもこのリア充という言葉自体、現在は死語になりつつあると思うがそこは一旦おいておく。地縁を持つ人間がリア充であり、それ以外が非リア充。極論すぎる。突き詰めるとここに行き着くのか知らないが単純に好きではない。一つの土地に巣食って地縁を培養することこそが幸せと言っている。地縁に馴染むことができず他の土地にはじき出され、住居を転々とする人間は全員不幸だということだ。都会の生活に疲れ果て、地方移住を決断した人々は全員敗走した人間だということだ。そんな話はおもしろくない。

 

地縁を持たない人間は自由である。それだけでいいじゃないか。

 

「米」は分解すると八十八とかく。八十八からの手間暇・段取りをかけて収穫される(と言われている)もので、泥臭さの象徴だ。鍋物にコメをぶち込むとき、「リゾットにしよう」などと言ってはいけない。あくまで「雑炊」「おじや」と呼称して、「残り汁で作る飯ほどうまいものはない」などと付け加えてぶち込むのである。カタカナ世界の一等高潔(と思っている)な世界観に酔いしれる連中は、もうそれだけで箸を置くであろう。鍋物の残り汁でおじやを作り、それを餓鬼のように音を立てて躊躇なくすする姿をSNSで開陳できる者こそが、「食」に対して誠実な、食材のロスを嫌悪する真の合理的人格者なのだ。

SNSは登場まもなく承認欲求を満たす為の場所になった。自分が他者よりも優れているというアピールが極めて容易な為だ。わざわざ他人を攻撃することなく、自分のアカウントへ華やかな生活の様子を投稿することで自分は価値のある人間であるという弾丸を不特定多数の人間に向かって発射できる。SNSは戦場なのだ。壮絶な銃撃戦の現場なのだ。そんなところで自分の弱点など晒せない。おじやなどはすすれないのだ。リゾットを上品に食すことしかできないのである。

 

おじやでもリゾットでも、呼び方なんてどうでもいいじゃないか。

 

「意識高い系」の研究 (文春新書) 古谷 経衡

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