咳をしてもデジタルジャンキー

咳をしても一人

俳句に興味がなくてもこの一句を聞いたことがある人は多いはずだ。私も例に漏れず同じ口で、俳句の知識など皆無であるが、この一句には惹かれるものがあった。明治から大正にかけての俳人、尾崎放哉(オザキホウサイ)の一句である。放哉は東京帝国大学法学部を卒業後、保険会社に就職した。当時でも現在でもエリートと言われる生活を送っていた。しかし、36歳の時、その道をかなぐり捨て、残りの生涯を俳句に捧げた。享年41歳、結核にかかり小豆島の庵寺でその生涯を閉じた。

放哉の代表的な俳句の多くは自由律俳句と呼ばれるものである。これは俳句を俳句足らしめていた季語や5・7・5のルールを無視したものであり、ひたすらに整合性を求める俳句の世界に一石を投じたものであった。放哉の俳句は彼自身の生涯と同じく、孤独で破滅的なものが多い。それゆえに現在でも、現在だからこそ注目されている。

「咳をしても一人」はその代表作である。結核による激しい咳は苦しいが、その時の自分には看病してくれる人もいなければ、身を心配してくれる人もいなかった。ただ一人、孤独であった。部屋にこだまする咳の音は、その事実をどうしようもなく突きつけた。

孤独とデジタルジャンキー

現在、孤独社会は実態を伴って私達に迫っている。政府は2021年より孤独・孤立対策担当大臣を任命し、孤独・孤立を国難と捉え、対策していくことを表明した。これは英国に続いて世界で二カ国目の行動であった。コロナ禍で孤独社会は更に加速した。人は一人では生きていけないけれど、結局最後は一人になる。孤独になることへの恐怖と、一人になりたいという希望、そこのバランスを取ることは非常に難しい。

インターネットは孤独を紛らわす麻薬だ。独居房に閉じ込められて誰にも会わなくても、インターネットに接続できる環境ならば人間は孤独を紛らわすことが出来る。コロナ禍で、一人きりで部屋にこもってテレワークに勤しむ人は増えた。日中はテレワーク、夜はネット動画鑑賞、食事はデリバリー。一歩も家から出なくても生活できることが証明された。ビデオ通話で人と会話できるし、娯楽はネット上に無限に転がっている。その状況なら人は狂わずに生活できるのだ。けれどこの状況を俯瞰するとどうだろうか。100年前の人間がこれを見たらドン引き確定である。一人でディスプレイという無機物に話しかけてニタニタしているのだ。

孤独が問題視されているが、当の私達は本当に孤独を感じているのか考えてみよう。何も予定のない休日にネットサーフィンをして無為な一日を過ごす人は、社会人学生問わず多い。たしかに一見すると孤独だ。一人で部屋にこもってディスプレイを眺める休日なんて不健康で孤独で褒められたものじゃない。けれど、当の本人は孤独を感じていない。それはネット上にあふれるコンテンツを消費することで得られる快楽物質が脳を支配しているからである。デジタルジャンキーである。国民総デジタルジャンキーである。

このデジタルジャンキー化によって、人は自分の脳で思考することが極端に減った。考えてみてほしい。一日のうちに何も脳に情報を入れずぼーっとする時間がどれだけあるだろうか。スマホのアラームで目覚めてそのままスマホをいじる。テレビとスマホを見ながら朝食を取る。通勤中もスマホを見る。仕事の休み時間にスマホをいじる。帰宅中にスマホをいじる。帰ってからとりあえずスマホをいじる。夕飯を食べながらスマホをいじる。風呂に入ってるときも髪を乾かしているときもスマホをいじる。寝る寸前までスマホをいじる。皆さんが一番分かっていると思うがこのスマホいじりで得ている情報の99%はクソ以下のゴミだ。SNSで他人と自分の生活を比べて、YoutubeでYoutuberの生活に貢献し、スマホゲームや5chで時間をドブに捨てる。

こんなことを言われるといやいや私はあなたと違って有意義に情報と付き合ってますよ、と思う人も多いはずだ。大変素晴らしい、どうぞそのまま有意義な人生を全うしてくれ。人に言われて反論したくなるときは大抵その意見が的を射ているからだ。私だってお前が触れている99%の情報はゴミで時間をドブに捨てている、と言われたら腹が立つ。けれど腹を立てて落ち着いた後にしみじみ思う。あぁ、確かにゴミだなぁ、と。

全てのサービスに言えることであるが、インターネットサービスは人間の時間をどれだけ奪ったかで評価が決定する。だからIT革命で全人類の膨大な時間を奪ったGAFAMは神の座に登った。生活を豊かにするという建前は、お前の時間を寄こせという本音を隠すことに今も成功しつづけている。

孤独から目を背けるな

もし尾崎放哉が生きたあの時代にインターネットがあったら、彼はあれだけ大量の名句を生み出すことが無かった可能性が大きい。小豆島の庵寺でYoutubeを見てその人生に幕を引いたであろう。ゴホゴホ咳き込みながら舌打ちをして、マウスをクリックし続けたであろう。

孤独と付き合うことは自分と付き合うことだ。孤独から目をそむけてデジタルジャンキーになり、感覚を麻痺させたまま人生を終える。断言するが、今後増大する孤独社会ではそれがごく一般的な生き方になる。どう考えてもその生き方は楽だからだ。人間は必ず楽な道を選ぶ。はたから見たら孤独でも、本人は孤独を感じずに生きている。電脳空間に意識の主軸をおいて生きていく。そう書いたらなんだかカッコよく思えてきたけれど、私はその生き方を選びたくない。今後の人生、孤独でも、孤独でなくても、今自分がどこに立っているか、その事実から目を背けずに生きていきたい。

最後にもう一つ、尾崎放哉の一句を記す。

「こんなよい月を一人で見て寝る」

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